長篠の戦いで大活躍した足軽!「鳥居強右衛門」の紹介
時は、天正三年(1575年)武田信玄の跡を継いだ、武田勝頼は織田・徳川連合軍の重要拠点である長篠城を包囲しました。 この包囲陣に、後詰として対峙した織田・徳川連合軍が馬防柵と火縄銃を上手く組み合わせて、武田軍を大敗させたのが、かの有名な長篠の合戦です。 この戦は火縄銃による集団運用によって、織田・徳川連合軍に勝利がもたらされたと伝えられていますが、実は、歴史の影に埋もれた功労者がいるのはご存知ですが?それが今回紹介する、鳥居強右衛門です。彼はごくごく普通の平凡な足軽です。それがなぜ、功労者として現代にまで語り継がれているのでしょうか?
武田勝頼が長篠城を包囲したのは五月十一日です。十四日、長篠城の城主奥平信昌は城の危機と城内の状況を主である徳川家康に伝えるための伝令を送りました。とはいうものの、すでに城は、武田軍に包囲されています。この包囲網を突破するのは決死の覚悟がいります。その決死の伝令に選ばれたのが鳥居強右衛門です。彼はその包囲網から見事抜け出し、無事、岡崎にいる家康の元にたどりつきました。ただ彼の活躍はこれだけではありません。なんと、城を救うための織田・徳川軍の準備が着々と進められていることを長篠城に籠城する将兵に伝えにいったのです。 籠城する兵士は、緊張や不安で、疲労困憊で、さらにそこに食料や水がつきれば、落城は必須でした。
強右衛門は援軍の状況を城の仲間に伝える為、今度は城を包囲する武田方に紛れ込み、 十六日竹束をかついで武田の攻撃軍に加わりました。しかし、後、もう少しのところで武田軍に正体を見破られ、捕らえられてしまいました。 武田勝頼は強右衛門にある条件を持ちかけました。 言うことを聞けば助けてやると。強右衛門は磔にされ城内から見える場所にさらされました。 そこで、「援軍は来ない。絶望的だ。」と城内に呼びかければ 助命され、そればかりか、褒美までくれると。だが強右衛門はその条件をのまずに、武士としての義を選びました。 磔にされながら、「援軍は間もなく来る! 三日の間、頑張れ!」と城内に向けて叫んだのです。 強右衛門はその場で槍で突き刺され絶命しました。その言葉とその死に様を見た、長篠城に籠城している兵は、奮い立ち、見事三日間持ちこたえました。 そして強右衛門の言葉どおり、三日後に織田・徳川連合軍が長篠城に到着したのです。
忠義深いキリシタン大名「明石 全登」
明石 全登(あかし たけのり)は、戦国時代の備前のキリシタン武将です。宇喜多秀家に仕え、宇喜多騒動で、家中が分裂する中でも秀家に忠義を尽くし続けました。しかし、関ヶ原の戦いで主家である宇喜多秀家が西軍の主力だったため、改易された事で潜伏生活に入ることになりました。その後、大坂の陣が勃発し、明石全登は豊臣方として参戦しました。「五人衆」の一人に数えられ、浪人衆の中心として活躍しました。しかし、その最期は謎につつまれており、討死したとも逃げ延びたとも言われます。そんな謎多き、明石 全登ですが、最大の謎は「全登」の呼び方と言われています。というのも現在でも読み方が全く分かっておらず、ぜんとう、てるずみ、たけのり、などの諸説あります。
笹の才蔵、槍の才蔵、2つの異名を持つ猛将「可児才蔵」
記念すべき第一回目に紹介武将は、可児才蔵です。可児才蔵は、戦国時代きっての槍の使い手で、戦において、常に手で持てないほどの敵の首を討っていたので、自分の討った首に目印として、笹をくわえさせていました。斉藤家→柴田家→明智家→前田家→織田家→豊臣家→佐々家→福島家と次々と主君を変えたことでも知られています。
可児才蔵の名前が世間に知れ渡った戦は、天下分け目の戦い、関ヶ原の戦いです。この戦で、可児才蔵は当時仕えていた福島正則軍の先鋒を務め、多数の敵の首級を討ち取り、その結果、東軍1位の17も上げる活躍をしました。結局、最後まで一兵卒としての身分でしたが、笹という分かりやすいトレードマークと多大なる戦火で、後の時代にまで知られることになりました。